交渉学(コミュニケーション)シリーズ
交渉学特集 「交渉学の研修による交渉力の定着まで」
一色正彦氏インタビュー
交渉学研修が社会人から求められている理由について一色正彦氏にインタビューしました。
交渉学特集 「交渉学の研修による交渉力の定着まで」
■ 対象は営業だけじゃない ~技術社員にも必要な交渉力~
―――この講座は、今までパナソニックグループの多くの技術社員を対象に実施されてきました。その狙いはなんですか?
技術社員こそ交渉力を身につけることが重要
交渉学が対象としている交渉は、「複数の当事者の利害関係等のズレや対立・衝突を乗り越えるための問題解決プロセス」です。交渉と言えば、営業社員のみに必要である、というイメージがありますが、必ずしもそうではありません。パナソニックグループでは、顧客に対する専門的な技術提案や、産学連携、共同研究・開発、技術の標準化などにおいて、積極的に技術社員を対外交渉に参加させています。このような場面では、技術社員は、様々な対立や衝突の機会に遭遇することになります。そのため、技術社員に対して、交渉学研究に基づく、交渉の成功確率を上げる方法論の学習機会を積極的に提供し、必要な能力の育成を行なっているのです。
一般的に、技術社員は、対外的なコミュニケーション力に課題があり、交渉シーンには向かない、と思われているようです。確かに、コミュニケーションが苦手だという技術者も多いのですが、交渉力は、分析力+コミュニケーション力+意思決定力の総合力であり、その中でも、技術社員が得意とする分析力の比重が高いのです。また、コミュニケーション力は、適切なトレーニングを行なえば十分に向上することが可能な能力です。交渉学の継続学習により、実際の交渉が楽しくなったという技術社員も多いのです。私が担当している大学院講座(一色正彦氏プロフィール※1~※3)でも、多くの技術系の学生や技術社員が参加し、継続的に学習しています。これからの技術社員は、社内のみならず、対外活動をする機会が増えますので、交渉力を身につけることが重要ですね。
―――この講座は、どのような企業の課題解決に活かせるのでしょうか?
チーム力の強化や調整能力の強化に活かせる
対立や衝突を乗り越えるための問題解決プロセスは、対外交渉のシーンだけではありません。社内のチームアップや組織間の連携強化などにも有効であり、実際に、これらの目的で交渉学研修を導入している企業もあります。たとえば、鴻池運輸様は、新規プロジェクトを拡大するために必要な能力として、交渉学研修を導入しています。また、門真市役所様では、組織内外で求められる調整能力の育成のために昇格者研修に、交渉学研修を導入しています。
いずれも、具体的な事例をベースに開発したケース教材に基づく模擬交渉を通じて、交渉に必要な理論パターンを学び、更に、同じ組織や職場の同僚同士が一緒に学習することにより、お互いの関係構築に効果が見られており、継続的に研修を実施しています。また、新入社員研修に導入している企業もあります。
■ 交渉力はコミュニケーションだけじゃない ~交渉力の定義とは~
―――お客様対応のための交渉という概念を超えていますが、"交渉"とはどう定義されますか?
分析力+コミュニケーション力+意思決定力の総合力と定義
交渉学では、交渉力を、分析力+コミュニケーション力+意思決定力の総合力と定義していますが、もう少し詳しく説明します。
交渉は、発生した問題を解決し、何らかの目的を達成するために行ないます。その交渉の目的を、"ミッション"、という用語で定義しています。ミッションは、交渉により問題を解決した先にある目的であり、中長期的な目的から短期的な目的までを含む広い概念です。
(図1:交渉学の定義)
交渉には、事前に十分な準備が必要です。交渉学では、(1)状況把握(問題の定義)、(2)ミッション設定(交渉目的の設定)、(3)目標設定(幅のある具体的な目標)、(4)選択肢検討(創造的なオプション)、(5)代替選択肢検討(リスクへの備え)による5ステップアプローチを推奨しています。
そして、準備した内容に基づき、交渉相手にメッセージを発し、また、相手のメッセージを聞き、質問し、観察、分析します。その上で、交渉で論点となっている具体的な条件について、受諾する、受諾しない、条件を付けて受諾するなど、部分的意思決定を行ないます。このサイクルが繰り返された後、最後には、交渉相手との最終条件の詰めを行ない、この相手とこの条件で、合意するか、それとも、合意しないか、という最終的な意思決定を行ないます。
(図2:交渉学のシーン)
これらのプロセスには、論理的な分析力、相手の立場を考えたコミュニケーション力、合意、不合意という結果のみならず、その結果の影響も考慮した意思決定力が必要になります。そのため、交渉力は、分析力、コミュニケーション力、意思決定力を構成する多くの能力の総合力なのです。
(図3:交渉に必要な主能力と構成要素)
(図1,2,3:一色正彦、田上正範、佐藤裕一著「理系のための交渉学入門」東京大学出版会,2013,p.14,図1:交渉理論の概念図)
■ 模擬交渉で交渉力の確認 ~研修内容と流れ~
―――交渉学研修の具体的なプログラムはどの様なものでしょうか?
交渉学研修の学習プログラムをご紹介しましょう。この研修は、下図の様に講義、模擬交渉体験、講評・まとめと三部構成です。
(図4:交渉学研修の概要)
その中でも一番のメインとなる模擬交渉体験について詳しく説明します。
ステップ1:事前準備
事前準備は、交渉学研究に基づく方法論の講義を受けた後、研修参加者が各自で準備を行ないます。各自の準備は、最初に交渉相手と交渉に至る背景や状況を記載した「共通情報」のシートを読みます。その上で、自分の役割に基づく「個別情報」(たとえば、売買交渉において、売主であれば、売主側のみが知っている情報)を読み、講義を受けた事前準備の方法論に基づき、交渉シナリオを準備します。
ステップ2:作戦会議
交渉シナリオでは、自分のみならず、相手に対する仮説思考、対立している論点を乗り越えるための創造的な選択肢を考えることが重要です。しかし、研修参加者が一人で考えるには限界があります。そのため、同じ役割の個別情報を持つ者同士が、4~6名のグループで議論します。これを作戦会議と呼んでいます。1対1で行なう模擬交渉の場合、作戦会議は、あくまでも、研修参加者が各自で考えた交渉シナリオを磨くためであり、最終的な交渉条件は、各自が独自に判断して決めます。しかし、同じ時間、同じ情報を読んで交渉シナリオを作っているにも拘わらず、各自のシナリオは異なっていることが多く、その理由から多くのことを学ぶことができます。
ステップ3:模擬交渉(ロール・シミュレーション)
模擬交渉は、前半と後半の2つのパートに分かれて実施します。交渉の前半と後半の間には、強制ブレイクと呼ぶ休憩時間を入れています。ブレイクの時間中は、交渉相手との会話は禁じられ、前半の交渉を振り返ったり、作戦会議のメンバーと情報や意見交換をします。このプロセスにより、自らの交渉を冷静に振り返ると共に、作戦会議のメンバーとの議論により、前半の交渉の課題を見つけ、後半にリカバリーするための準備をすることができます。そして、後半の交渉に入り、交渉終了の時間まで、模擬交渉を継続します。
ステップ4:感想戦
感想戦は、模擬交渉の後に、交渉相手と行ないます。感想戦では、最初に、模擬交渉の段階では相手に秘密にしていた個別情報をお互いに開示し合います。これにより、交渉相手がどのような状況を背負い、どのような情報を持っていたかを知ることができます。その上で、模擬交渉におけるお互いの交渉結果を振り返り、何が良かったか、何が問題であったかを意見交換します。このプロセスは、実際の交渉では実施できないため、模擬交渉というシミュレーションプログラムでのみ可能であり、高い学習効果が期待できます。
ステップ5:フィードバック
最後に、講師のガイダンスで、各チームの交渉結果を共有します。交渉は、合意が正解でも、不合意が不正解でもありません。対立する論点の本質を理解し、相手の背景にある情報を引出し、如何に深い議論をしたかが重要です。講義が、ケースの学習目標を解説し、交渉学研究の観点から、それぞれの結果が何を意味するか、対立や衝突を乗り越える方法として、何が考えらえるか、過去の研修参加者がどのような結果だったか、などのフィードバックを受け、再度、自分達の交渉結果を振り返ります。このプログラムは、一方的に講義を受けるのではなく、自らが考え、自らが行動する実践的な学習なのです。
ステップ5:フィードバック
■ eラーニングを組み合わせた学習方法 ~より効果的に交渉力を身につけるために~
―――より効果的に交渉学を学ぶには、どうすれば良いでしょうか?
eラーニングと能動的学習で長期記憶に残す
教育学者であるデール教授は、研究に基づき、学習の短期記憶と長期記憶の分岐点を2週間として、長期記憶になるか否かは学習方法により異なると発表しています。たとえば、読んだり、言葉を聞いただけの受動的な学習の場合、2週間後、長期記憶に残っているのが10~20%であるのに対し、ディスカッションに参加する、実際に自分で体験するなど、能動的な学習方法(アクティブ・ラーニング)では、70~90%に向上するのです。(Edgar Dale: Audio visual methods in teaching (3rd ed.), New York, Holt, Rinehart, Winston, 1969)
(図5:Cone of Learning, Edgar Dale)
eラーニングを活用した教育の先進国である米国では、eラーニングは、集合研修と組み合わせたハイブリッド(ブレンディッドともいう)と呼ばれる方法で活用するのが一般的です。交渉学研修で実施している模擬交渉による学習は、能動的な学習であり、長期記憶に残る高い学習効果が期待できます。しかしながら、事前、事後の学習にも意義があります。事前にeラーニングにより学習し、また、模擬交渉の後、eラーニングや書籍により復習することは、能動的な学習を継続することになり、高い相乗効果が期待できます。
―――"交渉学"と"交渉術"との違いとは?
「交渉術」を使うのはリスクを伴う
交渉学研究は、1979年ハーバード・ネゴシエーション・プロジェクトとしてスタートし、現在でもハーバード大学交渉学研究所を始め、複数の大学で研究が行なわれています。その研究成果は、米国のロースクール、ビジネススクールに始まり、ヨーロッパやアジア等、世界各国の学校教育や社員研修に活用されています。日本では、1980年代初頭に、ハーバード大学の研究が紹介されましたが、書籍の翻訳版が、ハーバード流交渉術として紹介されたこともあり、理論的な研究成果ではないと誤解されてきました。一般的に交渉術という用語が使用訳されている場合が多いのですが、ハーバード・ビジネス・レビューでは、「交渉学」と表記されています。(September 2002, 特別インタビュー、ロジャー・フィッシャー、ハーバード流交渉学講義、DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー編集部訳、Harvard Business Review , ダイヤモンド社、2002, p50)
交渉術と交渉学の違いについて、興味深い記述がありますので、ご紹介します。
研究者が考える交渉学と交渉術の違い
空港の売店では、「交渉ですべての望みをかなえる方法」だの「絶対に譲らない!最強の交渉人になる方法」だという本を目にすることも珍しくない。けれども読者の方々は、絶対にこうしたアプローチをとってはならない。
なぜなら、研究者であるあなたの交渉相手のほとんどは、職場の同僚や従業員や雇用主など、継続的なやりとりがあり、今後も長期にわたって付き合わなければならない人物であるからだ。現時点で自覚があるにせよないにせよ、こうした人々との関係は、あなた自身にとってもあなたの未来にとっても重要である。
巧妙な交渉術で彼らを操って、後悔するような合意をさせたり、してやられたという気持ちを抱かせたりすることがあってはならない。
カールM.コーエン、スザンヌL.コーエン『ラボ・ダイナミクス 理系人間のためのコミュニケーションスキル』 49頁
(Medical International 2007)
コーエン博士は、バイオ分野の研究者であり、自らが率いる研究所の組織間や研究者間の対立を乗り越えるために、交渉学研究を活用しています。この記載は、その実績を踏まえた理系研究者への警鐘ですが、示唆に富んだ指摘ですね。交渉術と呼ばれる交渉方法には、有名なグッドコップ・バッドコップ(相手に同情的な態度を示す役と敵対的な役を示す役による交渉術)やドア・イン・ザ・フェイス(最初に過大な要求をだして相手にNOと言わせた後、次第に条件を下げて本来の要求を出す交渉術)などがあります。
これらの交渉術は、その効果と限界に加え、封印するための対応方法も研究されています。従って、知識がない相手に一度だけであれば通用する場合がありますが、同じ方法を何度も使うことができません。また、コーエン博士が指摘しているように、継続的な関係の相手に使う場合、リスクが高い方法でもあります。交渉術を知っておくことには意味がありますが、実際に活用する場合は、相手と場面によるリスクを十分考慮し、慎重であるべきです。
一方、交渉学は、単に、相手に一回だけYESと言わせるための技術ではなく、継続的なパートナーシップを構築できる相手か否かを見極める戦略でもあります。ミッションを実現できる相手であれば提携し、実現できない相手と判断すれば提携しない、というフレームワークに基づいており、なぜ、その交渉結論になったかを合理的に説明できるためのロジックです。交渉学が提唱するWin-Win Approachは、このような考えに基づいており、問題解決のための様々なシーンに応用できます。
―――交渉学を学習し、実践的な交渉力を身に付けて、現場で発揮できるようになるためには?
交渉力の構成要素をご紹介しましたが、よく企業の人事部門の方に、「交渉学を学習するとこれらのすべての能力が育成できるのですか?」、と聞かれます。残念ながら、交渉に必要な能力は幅広く、交渉学の学習のみでは難しい、とお答えしています。しかしながら、日常の業務経験やOJTの蓄積、ロジカルシンキング、コミュニケーションなどのOFF-JTの研修等の学習内容が、実際に活用できる能力として身についているか否かを、模擬交渉(ロール・シミュレーション)を用いた研修で検証することは可能です。まさに、シミュレーションが可能な学習プログラムなのです。
(図6:交渉力を育成するための学習サイクル)
模擬交渉を行ない、まだ、不十分であると判断した能力は、OJTやOFF-JTで重点的に学習し、その後、再度、模擬交渉により検証するというサイクルを繰り返す方法が効果的です。交渉学研修を、一端導入すると継続している企業が多いのは、学習、実践、学習のサイクルを繰り返すことによる学習効果を実感しているからだと思います。たとえば、健康診断のように、定期的に研修を行ない、まだ不十分な能力はないか、または、学習した能力は定着しているか等を検証し、継続学習を繰り返すことにより、高い学習効果が期待できます。
[プロフィール] 一色 正彦
パナソニックソリューションテクノロジ―株式会社 顧問アドバイザ、K.I.T.(金沢工業大学)虎の門大学院 客員教授(※1)、東京大学大学院 非常勤講師(※2)、慶應義塾大学大学院 非常勤講師(※3)
パナソニック株式会社の海外部門(主任)、法務部門(課長)、教育部門(部長)を通じて経験した国内外の企業との交渉事例に基づき、東京大学と慶應義塾大学で実施された日本人向けにカスタマイズした実践的交渉学の研究に参加。その研究成果を用いて、大学・企業で交渉学の活用を広める活動を行なっている。
【大学院担当講座】
※1 交渉学要論、国際交渉特論
企業の実務家(経営者、法務・知財社員、技術社員等)や法律の専門家(弁護士、弁理士、税理士等)等の社会人が履修。交渉学の専門科目。2科目で5ケースの模擬交渉を実施。
※2 企業価値と知的財産、航空技術・政策・産業特論
専門技術を事業に活用したいと考えている理工学系の大学院生が履修。知財の活用と航空ビジネスの科目の中で、交渉学研究に基づく模擬交渉を実施。
※3 経営法学II
キャリアアップや起業を目指しているビジネススクールの大学院生が履修。ビジネスの法律の科目の中で、交渉学研究に基づく模擬交渉を実施。
【主な著書】
「契約交渉のセオリー」(レクシスネクシス・ジャパン、2014)
「理系のための交渉学入門」(東京大学出版会、2013)
「売り言葉は買うな!ビジネス交渉の必勝法」(日本経済新聞出版社、2011、中国翻訳版:電子工業出版社、2012)
【主な講演・関連記事】:
「企業法務のための交渉学」(日本組織内弁護士協会、2015/11/3)
「事例から学ぶ契約交渉のセオリー」(SMBCコンサルティング、2015/7/2)