人工嗅覚システム

においを捉えるセンシング技術
五感のデジタル化、最後の砦へ

センサー膜がにおいを捉えて電気信号に変換する人工嗅覚システムのCG。

インターネット上に構築される仮想空間「メタバース」の本格的普及に向けて、五感のデジタル化が急速に進んでいます。視覚に代わるようなレーダセンサやイメージセンサ、聴覚に代わるマイクロフォンや超音波センサは、すでに幅広い分野で活用され、触覚にあたる圧力センサや味覚センサなども進化を続けています。しかし、五感の中でいまだR&Dのフェーズにとどまる領域、それが「嗅覚」です。

嗅覚のデジタル化が極めて困難だとされてきた理由は、40万種類に及ぶにおい成分の膨大さと、味との比較で言えば1000分の1にも満たない、におい物質の濃度の低さ。これを的確にセンシングして電気信号に変え、パターン認識して人の嗅覚に迫る、さらにその先へ――。さまざまなセンサの開発、実用化に取り組んできたパナソニック インダストリーは、"五感で最後のデジタル化”とされるフロンティア領域に挑んでいます。その一歩目が、2022年11月に公開した「人工嗅覚システム」です。

 

独自開発の感応膜、16チャンネルで判別する

人工嗅覚は、その名のとおり人間嗅覚のメカニズムを基にしています。人は、最初に鼻腔からにおい分子を吸引して、それを嗅覚受容体で捉えて嗅細胞で電気信号に変換しています。その信号を脳に送ることで記憶と参照し、においを識別していると考えられています。当社のセンサも同様のメカニズムで、「①ファン」で吸引されたにおい分子を、「②感応膜」に吸着させ、「③トランデューサ」で電気信号に変換したうえで、「④AI」によるパターン認識を経て、においを識別します。

人工嗅覚のメカニズムをAI、トランデューサ、感応膜、ファンに置き換えて構成する嗅覚センサのメカニズム。

この嗅覚センサメカニズムの肝と言えるのが、高分子材料と導電性カーボンナノ粒子の混合物で構成される独自開発した感応膜です。径1mmの感応膜を4列×4列に配置した16チャンネルの小さなセンサチップが、においを捉えて電気信号に変換します。例えば、一般的なガスセンサは1種類のガスしか検知できませんが、人工嗅覚センサは、一つのデバイスで多様なにおいの状態を判別できます。プロジェクトマネージャーの瓜生幸嗣は「東京大学ほかと共同研究をした『呼気による個人の識別』で、当社センサで取得した対象者の呼気データとにおいの違いから、個人認証が可能だと実証しました。あくまでも一つの応用例で、実用化に向けた課題は多いですが、人工嗅覚がヒトでは不可能な領域に踏み込んだという意味で象徴的な結果ではないかと考えています」と手応えを語ります。

 
 

人の嗅覚、そのレベルとは?

ヒトの嗅覚をボール探しに例えると?どの面積に落ちている一つのボールを見つけるのと同じ感度でしょうか。①東京ドーム(0.05k㎡)、②お台場(東京都港区台場)(0.5k㎡)、③皇居(外苑含む)(2.3k㎡)。

人の嗅覚とは、どのくらい薄いにおいをかぎ分けられるのか。例えば、1種のにおいをボールとすると、どのくらいの広さから見つけるのと同じ感度でしょうか。答えは③の皇居の広さ。それくらい薄いにおいも判別できるのが、人の嗅覚レベルです。におい物質の濃度の薄さは、味を構成する分子濃度と比較をしてみると、その差は歴然。味の分子濃度1%に対して、においの分子濃度はその100分の1(1ppm)~1兆分の1(1ppt)と非常にわずかな物質量です。

これほど感度の高い嗅覚をもってしても、人は誰かの呼気で個人認証をすることはできません。つまり、この人工嗅覚センサは、すでに人を超えた嗅覚レベルを達成しているのです。2022年11月11日の記者発表では、開発品のモジュールを展示し、呼気を解析するデモ展示を行いました。チューブから息を吹き込むと、瞬時に特性を分析して個々がモニター上にマッピングされます。プロジェクト立ち上げから感応膜・センサの研究に携わる中尾厚夫は「ケミカルセンサの開発で最も難しいのが、分子に対する応答の再現性。2014年に始まった嗅覚への挑戦は、16チャンネルで実現した高感度で、一つの大きな山を越えたと思っています」と技術の到達点に自信を示します。

人工嗅覚システム(開発品)
人工嗅覚システムの開発品を試しているようす。
 
 

安定したセンシング、再現性の追求

これから先に広がりゆく、嗅覚のデジタル化。プロジェクトメンバーはその展望について「いわば、市場がまだ立ち上がっていないのが現状。それだけにポテンシャルを感じますし、中長期の視点で3年~5年後に私たちが描く世界観を、より多くの皆さんと共有したい。それは、嗅覚も他の五感と同じようにデジタル化され、さまざま識別やバーチャル体験に実用化できる世界です。また、足元でこうして成果をご覧いただくのも私たちのミッション。一つの原理検証ができてもそこに落ち着かずに、商品に仕立てるために泥くさく挑戦を続けたい」と意欲を燃やします。

アカデミアとの共同研究で実証された、人工嗅覚システムの実力。それは、ただ華々しいチャンピオンデータではなく、毎回同じ結果をはじきだす再現性、正確な識別の追求によるもの。人工嗅覚システムは、材料技術や回路設計、AI解析など各分野のプロフェッショナルをプロジェクトチームに迎え入れながら、さらなる進化を追求しています。パナソニック インダストリーが掲げる「見えないところから、見違える世界に変えていく」、その先端事例の一つが、目に見えない「におい」のセンシング。その現在地は、一般的な人の嗅覚を超え、におい感知について訓練された専門家のレベル。実用化に向けて、さらなる進化を目指しています。

人工嗅覚システムの開発メンバー
 

開発の中心メンバー、技術本部 センシングソリューション開発センターの2人に、
プロジェクトによせる、技術者の思いを聞きました。

 

 

人工嗅覚が拓く未来へ、信じて進みたい

瓜生 幸嗣[プロジェクトリーダー]
画像:瓜生幸嗣

Q_開発チームの特徴、マネジメントで大切にしていることは

人工嗅覚の開発チームは現在11人で、さまざまなスペシャリストが尖ったスキルを発揮しています。これは才能ある幅広い人材がそろう、パナソニック インダストリーならではの強み。均質性と真逆の、多様な個性同士が高めあい支えあう環境に可能性を感じています。そういう私自身も生物学を専攻して、ヘルスケア分野で入社した経歴ですから、ちょっと異色ですが(笑)。技術の力で人間の可能性を広げる、そういう目標にチームで向かっていきたいですし、人工嗅覚は、それを信じてまっすぐに進むことができるテーマ。ビジョンを共有してテーマを推進する中でエンジニア自身も自ら育っていける環境を作ることを大事にしています。

Q_記者発表のムービーの中でも、社のビジョンを強調しました

ステートメントで語られている一節「見えないところから、見違える世界に変えていく。」がとても好きで、これが私たちの本質だと思っています。パナソニック インダストリーは2022年4月にスタートしたばかりですが、ブランドで商品が買われるというより、商品やサービスがお客様に広く浸透して、それによってブランドを知ってもらうというのが理想だと思っています。「当社にとって無くてはならないアレは、パナソニック インダストリー製だったのか」と、見えないところから社会を支える商品をつくっていきたい。人工嗅覚システムは、今時点では飛びぬけた感度を実現できていると自負していますし、その先を見据えて世の中を変えていく技術に、事業に成長させていきたいと思っています。

人工嗅覚が実用した近未来のイメージVTR。
 

 

 

人々がワクワクする商品に育てたい

中尾 厚夫[エンジニア、感応膜・センサ開発]

Q_このプロジェクトで推進力になっているのは、どんな要因でしょうか

議論を重ねながら、それぞれのメンバーが高め合っていける、そこにチームの進化を感じ取ることができます。プロジェクトの立ち上げから積み上げてきたベースに、回路設計の専門家、AIの専門家とメンバーが増えていき、そこで開発が一気に加速しました。足りなかったピースが埋まり、互いにリンクしながら技術を高めていく、そんな手応えがあります。1人の技術者としてワクワクするようなチームですし、このメンバーで世の中をワクワクさせる商品をつくりたい――。個人的な目標として、そういうサイクルを回せる人材になりたいと思い描いています。

写真:中尾厚夫
人工嗅覚のデバイス(開発品)

Q_自身の中で、開発の転機になった場面はありましたか

実は開発のスピードが高まっている時期、ちょうど3年前に育児休暇を3カ月取得したんです。そのブランクがどう影響するかを心配したのですが、復帰した時に、以前とフォーカスすべき場所や目線、発想にも変化が感じられました。自分の考え方や姿勢が変わったような感覚です。材料技術の研究者として泥臭く打ち込んできた開発でしたが、一度そこから離れたからこそ見えた課題に、新たな発想で向き合えたことが今回の成果につながっています。デバイス分野で、全く新しい事業というのは、なかなか生み出せないところですが、人工嗅覚システムは大きな可能性を持っています。新しい事業、新しい市場をつくって、社会に大きく貢献していきたいと思います。