PanasonicのDNA、そのルーツとは
1918(大正7)年の創業時から太平洋戦争や高度経済成長を経て現在に至るまでの歴史から
PIMSJに受け継がれるパナソニックのルーツを感じてください。
松下電気器具製作所
(現在のパナソニック)を創立
3月7日、創業者・松下幸之助はそれまでの住居兼工場であった猪飼野から大阪市北区大開町に移り、「松下電気器具製作所」を創立。配線器具の製造を開始しました。当時の作業場は、2階建ての借家の階下3室を改造したもので、設備は小型のプレス機が2台のみ。人手は幸之助と、むめの夫人、義弟(井植歳男・後の三洋電機 創業者)の3人だけという小さな個人企業からのスタートでした。
第1次本店・工場を建設
創業者・松下幸之助は、1920(大正9)年2月、初めての商標「M矢のマーク」を制定。3月には東京駐在を設置しました。1922(大正11)年には、新しく工場を建設することを決め、自ら工場と事務所の設計を行いました。不況下にありながら積極経営を進め、創業以来4年間で、小さいながらも工場らしい工場を持つ小企業へと発展しました。
「ナショナル」の商標を付けた初の商品、「ナショナルランプ」を発売
1925(昭和元)年、創業者・松下幸之助は、発売に向けて生産していた角形ランプのために「ナショナル」の商標を考案し、翌年には商標権を獲得。「国民の必需品」となるようにと願って付けた「ナショナル」の名を冠した最初の商品、「ナショナルランプ」は1927(昭和2)年に発売されました。自転車用にも、置いても、携帯しても使えるこの電池式の角形ランプは、安全な光源として大ヒット。「ナショナル」が電池式ランプの代名詞になったほど、日本全国津々浦々にまで普及しました。
真の使命を知る
創業者・松下幸之助は、ある宗教団体を見学したのをきっかけに、生産人の使命というものを深く考え始めました。そして5月5日、大阪の中央電気倶楽部に全店員168名を招集。パナソニックの真の使命を次のように語りました。「水道の水は加工され価あるものであるが、通行人がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格があまりにも安いからである。産業人の使命も、水道の水のごとく物資を豊富にかつ廉価に生産提供することである。それによってこの世から貧乏を克服し、人々に幸福をもたらし、楽土を建設することができる。わが社の真の使命もまたそこにある」。商売や生産は、その商店や工場を繁栄させるのでなく、その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。この考え方は「水道哲学」と呼ばれ、その後パナソニックを代表する思想として有名になりました。幸之助は使命達成のための250年にも及ぶ壮大な事業計画を語り、その使命の崇高さ、計画の壮大さに全員が胸を打たれ、会場は興奮のるつぼと化しました。幸之助はこの日をもって「創業記念日」とし、事業の真の使命を知ったということからこの年を「命知元年」としました。
共存共栄の理念に基づき、正価販売運動を展開
創業者・松下幸之助は、適正利潤に基づく価格で販売することは、メーカー、販売業者の経営安定のためだけでなく、需要者にとっても買いやすく、しかも安心して買えることになると確信していました。そこで、共存共栄の理念に基づいて正価販売運動を展開。「正価」とは「適正価格」という意味で、一般の「定価」と区別するための呼称でした。さらにその理念を推し進めるために「連盟店制度」を実施しました。
週休制を開始
これまで月に2日だった休日を、毎週1日休める「週休制」に変更しました。創業者・松下幸之助は、従業員の指導育成の面から、休日が増えたために遊びすぎて健康を害したりすることのないよう、月4回の休日のうち2回は休養に、2回は修養に充てるように望みました。
創業者・松下幸之助が初の米国視察
1月、創業者・松下幸之助は海外事情を見聞し、視野を広げるために、3カ月間のアメリカ視察に旅立ちました。日米の格差はあまりに大きく、幸之助は、特にエレクトロニクス技術について海外に学ぶべき点が多いことを痛感。具体的な技術提携先を求めて、同年10月に再び渡米。ヨーロッパを周って12月に帰国しました。
全国の販売会社・代理店を集めて熱海会談を開催
高度経済成長の反動が現れたこの年、パナソニックも11月期の半期売上は、1950(昭和25)年以来の減収減益となりました。販売不振により、販売会社・代理店も赤字経営に陥るところが激増。この事態を打開するため、創業者・松下幸之助は同年7月、全国の販売会社、代理店の社長との懇談会を熱海で開催しました。会議は白熱し、販売会社、代理店からは多くの苦情、要望が出されました。会議3日目、幸之助が「まずわが社自身が改めるべき点は改め、その上で販売会社にも求める点があれば率直に改善を求めて、危機を打開していくしか方法はない」と反省の念を表明。会場は粛然となり、お互いの努力と協力を誓い合いました。
中国の鄧小平副首相がテレビ事業部を訪問
10月、中国の鄧小平副首相が来日し、パナソニックのテレビ事業部を訪問。「技術・経営面での援助をお願いしたい」と要請しました。それに対して創業者・松下幸之助が「できる限りのお手伝いをします」と快諾したことで、パナソニックの中国での事業展開がスタート。翌1979(昭和54)年には幸之助が中国を訪問し、鄧副首相ら政府要人と懇談しました。
創業者・松下幸之助が死去
4月27日、幸之助が94歳で生涯の幕を閉じました。9歳で故郷・和歌山をあとにし、一代でパナソニックを世界有数の総合エレクトロニクスメーカーに育て上げたその業績に対し、人々から尊敬と親愛の念を込めて「経営の神様」とも呼ばれました。世界各階層の人々に大きな影響を与えた経営観、人間観、社会観の持ち主だった幸之助の死去に対し、日本の総理大臣や米国大統領をはじめ、世界各国から心のこもった弔意が寄せられました。
グローバルブランドを「Panasonic」に統一
グローバルブランドを「Panasonic」に統一するとともに、グローバルブランドスローガンを「Panasonic ideas for life」とすることを決定。1955(昭和30)年に輸出用スピーカーのブランドとして使用を開始して以来、欧米を中心に「品質の良さと信頼感・安心感」、「先進性・先端性」といったブランドイメージを蓄積してきた「Panasonic」をグローバルブランドとして位置づけ、海外の全地域で展開することでブランド価値のさらなる拡大を図っていくことになりました
パナソニック電工と三洋電機を完全子会社化
2010(平成22)年1月の事業方針発表会において、大坪社長が表明したパナソニックの創業100周年ビジョン「エレクトロニクスNo.1の『環境革新企業』」実現に向け、翌年の4月、パナソニック電工と三洋電機を完全子会社化。翌2012(平成24)年4月からは、グループの事業を「コンシューマー」「ソリューション」「デバイス」の3分野に再編した新体制がスタートしました。
創業100周年を迎える
パナソニック株式会社は、2018年に創業100周年を迎えました。
そして2018年を次の100年に向けた「再スタートの年」と位置づけ、“新たな顧客価値”の創造に取り組む第一歩を踏み出しました。
100周年を迎えたパナソニック㈱が目指すべき姿については、「一人ひとりの暮らしを少しでも良くしていくこと、少しでも暮らしやすい社会を創り上げていくこと」が創業以来変わらぬ存在意義であるとしたうえで、目指すお役立ちの本質を「くらしアップデート」という言葉で定義しました。
パナソニックは家電の会社から、
暮らしアップデート業の会社になる